NHK『風、薫る』シマケン(Aぇ! group 佐野晶哉)、視聴者の「ときめき要員」では終わらせない葛藤と誠実さ

2 時間前 1

見上愛、上坂樹里がW主演を務める連続テレビ小説『風、薫る』。田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社、2023年)を原案としたオリジナル作品で、激動の明治、看護の世界に飛び込んだ二人の“トレインドナース”を描く本作。

第11週「凪(なぎ)にそよぐ」では、服毒自殺を図って一命を取り留めた女郎・夕凪ことセツ(村上穂乃佳)の自由廃業をめぐる物語が大きく動いた。動かしたのは、権力でも金でもなく、新聞記事──「文字」だった。

今回は、その記事を書いた島田健次郎、通称シマケン(Aぇ! group・佐野晶哉)を二度目に取り上げる。そして、彼と対をなす存在として、瑞穂屋の主人・清水卯三郎(坂東彌十郎)を初めて軸に据えたい。

文字で社会を動かそうとする青年と、取り引きで社会を回す商人。この二人が、本作の土台にある「社会」を、それぞれのやり方で形作っている。

シマケンが書いた文字が、人を動かし始める

シマケンは第3週、瑞穂屋の暖簾をかき分けて登場した。前回も書いたとおり、彼は「何者でもない変わり者」と自ら名乗り、「(役に立たず、役目がなくとも)生きていける社会のほうが僕は助かりますけどね」と言ってのける。新語や外国語に造詣が深く、フランス語・ドイツ語・オランダ語の「社会」という単語を次々と並べてみせもした。だが第11週、その「社会」は言葉遊びでは済まなくなる。彼の書いた文字が、現実に人を動かし始めるからだ。

夕凪を救う手立てを探すりん(見上愛)は、卯三郎を訪ね、廃娼運動の記事を見せてもらう。だが、訪ねた新聞社では逆に夕凪への取材を求められる。「誰かが声をあげなければ社会は変わらないんです」と言う編集長・綿貫(小松和重)に、「人柱になれということですか」と問えば、「まあ……そういうことになりますね」。逃げてもダメ、運動もダメ。

打つ手のないところに、女郎の心中を題材にした記事が新聞に載る。名前は「夕顔」に変えられ、幼馴染との悲恋に書き換えられているが、夕凪のことだとすぐにわかる内容だ。

書いたのはシマケンだった。りんが卯三郎に話したことを、卯三郎から詳しく聞いたのだという。憤るりんに、彼は言う。「あえてわかるようにしたんだ」「新聞には、文字には、力がある。世間に夕凪さんのことを知らせたらきっと」。

文字の力は、確かにあった。読者から夕凪への同情が集まり、当時極めて高価だった氷の使用が許可され、見舞いの品が病室に届く。世間に責められた女郎屋の権田(梅垣義明)は客足が途絶え、ついには「このまま消えてくれ」とまで言う。結果として、記事は夕凪を自由廃業へと押し出した。

だが、それはあくまで結果論だ。記事は事実に創作を織り交ぜたもので、本人に会いもせずに書かれていた。権田が読んで夕凪がさらにひどい目に遭う可能性も、大いにあった。続報として書いた、名ばかりの「娼妓解放令」がかえって女郎に「自業自得」の冷たい目を向けさせたという記事も、編集長に依頼され、悩んだ末のものだ。

『ばけばけ』梶谷吾郎(岩崎う大)とシマケンの共通点

親友で同じく小説家を志す槇村(林裕太)は、沈むシマケンに「臆病者!」とハッパをかける。書いたなら腹をくくれ、書かれた方も無傷ではすまない、と。やがてシマケンは夕凪を見舞い、頭を下げる。「僕のしたことは誠実ではありませんでした。あなたにしても。モノを書くということにしても」。

ここにシマケンの核心がある。彼は何者にもなりたくない、何の役にも立たない人も生きていける社会がいい──そう理想を語る一方で、本望ではない活字工として言葉を拾いながら、小説家を目指している。だが、その道はなかなか開けない。第10週でも自作の原稿を新聞社に持ち込み、評価されずに打ちひしがれていた。そんな彼が初めて世間を動かしたのが、皮肉にも、他者の事実をもとに「創作」した記事だったのだ。

しかも、彼を筆に向かわせたのは、夕凪本人というより、「夕凪を助けたいりん」の役に立ちたいという思いだった。役立たずを肯定する理想を掲げながら、自分は誰かの役に立ちたい。この矛盾は、目の前の人を助けるという看護の道を進むりんに触発されて生まれたもののように見える。他者の心の機微には驚くほど敏感なのに、自分の恋心にはとことん鈍い。葛藤だらけのこの青年は、しかし、だからこそ誠実だ。自分の書いたものを不誠実と認め、本人を前に頭を下げられる人間でもある。

文字の力と、その負の面。それは、前作『ばけばけ』でも描かれていたテーマだ。あちらでは、自称・敏腕記者の梶谷吾郎(岩崎う大)が「松江新報」の連載で、外国人のヘブン(トミー・バストウ)を「正座もできる」「日本人より日本人らしい」と書き立て、記事は大評判を呼んだ。妻の松野トキ(髙石あかり)一家も、もてはやされた。ところが、莫大な借金をヘブンが肩代わりした事実が載るや、世間の態度は一変する。トキは「ラシャメン」──異人に買われた妾──と決めつけられ、罵声を浴び、ついには石を投げつけられた。

やがて人々の関心は別の話題へ移り、騒動はあっけなく終わる。だが、トキの額には傷が残った。梶谷の正義とは「読者が喜ぶこと」であり、何が正しいかよりも読者が興味を持つかどうかが先に立つ。もてはやしも、手のひら返しも、するのは世間だ。そして、その世間を動かすのが、メディアの文字なのである。

『風、薫る』のシマケンは、その梶谷とよく似た場所に立っている。違うのは、彼が自分の書いたものの後ろめたさから逃げないことだ。世間が夕凪に同情を寄せても高揚せず、むしろ沈み、本人の前で頭を下げる。書いた文字が人を動かす怖さを引き受けようとする青年を通して、本作はメディアの罪を、断罪ではなく葛藤として描いてみせる。

シマケンを「ときめき要員」として消費しない覚悟

さて、もう一方の卯三郎だ。薩英戦争でイギリスの軍艦に乗り、通訳として和平に尽力し、福沢諭吉とも親交のあった実在の人物をモデルとする。だが、行き場のなかったりんを雇い、夕凪の件でも相談に乗るこの恩人は、単なる「善人」としては描かれない。「リターン」という言葉を口グセのように使い、打算を隠さないのだ。

しかし、この打算こそが肝だ。施しは、施す側と施される側という上下を生む。リターンを求める取り引きは、相手を対等な一個の人間として扱う。その根にあるのは、社会が愉快で心地よくあってほしいという願いであり、そこには、りんのような人間が面白く生きていることも含まれている。

だから彼は、夕凪一人を助けても何も変わらないと現実を突きつけながら、同時に廃娼運動の記事を差し出す。突き放すことと手を差し伸べることが、彼の中では矛盾しない。

そもそも、りんの話がシマケンの記事になったのも、瑞穂屋という場があったからだ。舶来品と洋書が並び、勝海舟(片岡鶴太郎)のような大物から書生まで、雑多な人と情報が行き交う店。卯三郎は、人と人、情報と情報をつなぐ結節点として機能している。シマケンが各国語で愛でた「社会(ソサイエティ)」の実体が、あの店先にあるのだ。

その社会の中で「個」がどう扱われるか──人柱にされるのか、対等な相手とされるのか──を、第11週は夕凪をめぐる物語を通して問うていた。

最後に、もう一つ。具体的な作品名は挙げないが、一時期の朝ドラには、タイプの違ういわゆる“イケメン俳優”を複数取り揃え、女性視聴者の“ときめき要員”として消費しているかに見えた時期もあった。

シマケンも、登場時の反響からすれば、その系譜に連なり得る人物だ。だが本作は、彼をときめき要員に留め置かず、文字と社会の関係に悩み、謝罪し、それでも書く人間として描いた。打算を隠さない卯三郎の造形も同じだ。

男性を視聴者のときめき要員として消費しない──シマケンと卯三郎の描き方にこそ、この作品のスタンスと覚悟が表れている。

記事全体を読む