自公の連立解消で「高市首相」の誕生に暗雲が漂い、混迷を極める日本の政局。各種メディアは主要政党の離合集散の予測に余念がありませんが、いかなる地点に落ち着くことになるのでしょうか。今回のメルマガ『小林よしのりライジング』では漫画家の小林よしのりさんが、過去の戦争から現在の政局まで一貫して人々を動かしてきた「時勢」について解説。その上で、国民民主党の玉木雄一郎代表が「首相になるしかない」理由を論じています。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:ゴーマニズム宣言・第581回「時勢には逆らえない」
時勢には逆らえない
いつの時代にも「時勢」というものがある。
人は自分の生きる時代を選べない以上、それが自分にとって好都合だろうが、不都合だろうが、今の「時勢」の中で生きるしかない。人はどんなに不本意であろうと、「時勢」を無視して生きることはできないのである。
石破茂が首相退任直前の「最後っ屁」のように「戦後80年所感」なるものを発表したが、とっくに敗戦という結果が出て、80年も経ってから後出しジャンケンで「なぜ、あの戦争を避けられなかったのか」なんて言っても、完全に無意味である。
その時代には、その時代の時勢があったのだ。
1930年代には「これからは全体主義の時代だ」と、誰もが信じていた。国家が生き残るためには全体主義化するしかないというのが歴史の必然だと思われていて、いちはやくその流れに乗らなければならないとして「バスに乗り遅れるな」というスローガンが唱えられ、日本はドイツ・イタリアとの「三国同盟」へと向かっていった。
それこそが世界史の流れであるというのが、当時は日本のみならず世界中の認識だった。それがその時代の時勢であり、その方向に突き進むしかなかったのである。
国内事情においても、その時代の時勢があった。当時の民衆は、政治の腐敗と無為無策に心底ウンザリしていて、軍隊の清廉さと実行力に対して圧倒的な支持が集まっていたのだ。
軍隊の暴走を抑えるための文民統制の制度がなかったというシステム上の問題はあったが、それは些細な問題だ。それよりもずっと大きかったのは、当時が「帝国主義」の時代だったということだ。強国は弱小国を植民地支配することが当然とされていた時代だったのだ。
弱肉強食、食うか食われるかの時代に、反戦平和なんて訴えられるわけがない。戦争する力のない国は侵略され、植民地にされるしかなかった。
侵略する側になるか?侵略される側になるか?の二者択一しか許されなかったのが当時の時勢であって、そこで日本人は侵略する側を選択したのだ。
それはもう、全部仕方がないことだったのであって、戦後80年も経った今の日本人が、しかも石破ごときが偉そうにどうこう言ったところで何の意味もない。もしもその時代にタイムマシンで行ったとしたら、結局はその時代に全く逆らえず、何もできないに決まっている。
わしは『戦争論』の冒頭(P.33)で、こう言った。
だったらおまえがその当時の人間だったら何かできたのか?
人は時代の条件と気分の中にしか存在しない。
時代の必然性を無視して『失敗しやがって』と言える者こそが無責任で信用ならない連中なのだ。
歴史の中のどの先人たちもぎりぎりの状況の中でぎりぎりの選択をおこなってきた。時代に恵まれ 時代に見離されながら…。
発表から27年も経つが、たったこれだけの認識すら定着せず、いまなお「無責任で信用ならない連中」ばかりが大量生産されているというのが現状である。
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そして80年以上前と同じように現在も、誰にも逆らうことができない「時勢」がある。
公明党の連立政権離脱で「高市首相」の誕生は全く不透明となり、どことどこが連立を組んで、誰が首相になるかということがいろいろ取りざたされているが、時勢でいえば、国民民主党の玉木代表を担いで政権交代しようという方向に進んで行くしかないだろう。
自民党から公明党が離れた時点でそういう勢いは決まったようなもので、高市早苗は哀れだけれど、もう仕方がない。
結局、高市はとにかく人心掌握ができない人だったのだ。そう考えると、並み居る豪族たちを従えていた卑弥呼や、神功皇后や古代の女性天皇はすごかったのだなと改めて思う。
安倍晋三だったら何を言おうが何をやろうがみんな支持していたし、公明党もついていった。ところが安倍の「コピー」と言われるほど安倍と同じことを言っている高市には、誰もついていかないのだ。
高市に人心掌握の能力がないことは、一般大衆にも見えているようだ。たとえイデオロギーが同じでも、人が違えば大衆の反応は全く違う。そもそも思想信条や主張なんか、誰も注目しちゃいないのだ。ただ安倍晋三は血筋が良くてちょっと見栄えがよかったという、ただそれだけだ。あとは「アベノミクス」という号令がなんとなく威勢が良くてものすごく効いたのだ。
しかし「サナエノミクス」なんて言っても何のインパクトもないし、単に安倍のマネと思われて終わりだ。高市はとにかく人物に魅力がなかった。「女性」という要素も一切プラスには働かなかったのだ。
それでもネトウヨはまだ高市に期待していたのだが、自民党総裁になった途端に靖国参拝を取りやめたところで、すっかりドッチラケになってしまった。
ところがそれでも公明党から見れば、たとえ靖国参拝をやめても高市は超右翼で危険な存在だったのだ。
そもそも公明党としては、自民党の「政治とカネ」の問題のとばっちりで自身の票も減らしてしまい、このままだと共倒れになりそうだという危機感から、もう連立を離れたいという思いは募っていたようだ。
しかもそんな時に、よりによって萩生田を幹事長代行に起用したことが公明党の神経を思いっきり逆なでした。萩生田は政治とカネ問題の象徴みたいな存在である上に、統一協会問題もまだ引きずっている。公明党にとっては統一協会なんか決して許せるものではないはずだ。
創価学会の信者も高齢化しているし、池田大作も死んだし、二世・三世の信者はそんなに熱心じゃないし、公明党自体の退潮にも歯止めがかかりそうにない。このままでは次の選挙では参政党に負けてしまうかもしれない。そうなるとより一層、高市なんかにつくわけにはいかない。
もう公明党はきれいさっぱり自民とは別れたのであり、復縁はありえない。
とはいえ公明党も長年政権与党の旨みを知り尽くしているから、この先ずっと野党暮らしを続けることはできないはずだ。だから公明党は立憲民主党や国民民主党と組んで政権交代を起こし、再び与党に入りたいと考えているだろう。
連合が支持母体の国民民主が公明の代わりに自民と連立を組むという決断などできるわけがなく、それよりは犬猿の仲の立民と組んだ方がまだマシのはずだ。立民との間に公明が入って、しかも玉木を首相に擁立するとなれば乗れるだろう。
とにかくそんな流れが出来たのだから、ここで二の足を踏んでたたずんでいるわけにはいかない。成功するかどうかはわからないが、まずは政権交代して、玉木が首相をやってみるしかないというのが、いまの時勢というものである。
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問題は、その優柔不断な態度が最近ネットでボロクソに叩かれている玉木に、首相を引き受ける決断ができるか否かだ。
何しろ党として山尾志桜里を公認するかどうかというだけのことで、世間の批判にあんなに怯えまくって、なりふり構わず彼女を排除したほどのヘタレなのだから、ここでリスクを取る度胸があるかどうかはやや疑わしい。
だが玉木も一度は意欲を示した以上、ここでやらなかったら、やっぱりいざとなったら日和って逃げる奴だという評価が定着してしまって、もう決して次のチャンスはない。
時勢によって否応なく、時代を先に進めるためのある役割が自分に回ってきてしまうということはありうるし、そうなったらもうどうしようもない。そこで無理やり時勢に逆らっても、それは自分を貶めることにしかならないのだ。
たとえ嫌だったとしても、自分に与えられた役割は引き受けるしかない。その結果失敗することが見えていたとしても、もはやそれすら関係がない。その巡り来た状況をどのように政治に取り入れるか、どういうふうにバクチを打てるかというのが政治家の器量というものだろう。
わしは玉木なんか本当は大嫌いなのだが、時勢がそうなったら仕方がない。そろそろ政権交代だという時代が来て、その役割が玉木に降ってきちゃったのだから、しょうがないのだ。
そもそも玉木はキャスティング・ボートを握ることを目標にして国民民主党を率いてきたはずだ。
それがいざ実際にキャスティング・ボートを握れるところに来たら、急に怯えて逃げ出したとなれば、とてつもない臆病者・卑怯者ということになって、国民民主の支持率も激減してしまう。だから、もうやるという選択肢しかない。
そんな責任重大な事態に直面したくないというのなら、政治家にならない方がよかったし、ましてやキャスティング・ボートを握る政党を作ろうなんて考えてもいけなかったのだ。
キャスティング・ボートを握れるかどうかは、「機を見るに敏」であるかどうかにかかっている。いざという時を逃さず権力を取りに行き、また逆に、ヤバイとなったらすかさず離脱するものなのだ。
その点でいえば、今回の公明党は見事だったと言える。26年間も自民党と連立を組んで、与党の甘い汁が吸いたいから何があっても自民から離れられないだろうと誰もが思い、「下駄の雪」なんて揶揄されて、永遠の愛人みたいな感さえあったのに、それが急転直下、すっぱり離脱したのだ。
そこで今度は玉木の度胸が問われる番だ。その時が来たのだから、もう首相になるしかない。
ここで政権交代さえ成し遂げて首相になってしまえば、玉木の株はその時だけでも爆上がりになる。たとえ短命政権に終わって、何もできずに最後はボロボロになったとしても、名前だけは残る。32年前に8党連立政権に担がれて初めて自民党を下野させた細川護熙のように。
そういえば、細川は「朝日新聞を読んで自分の考えを決める人」と言われていたらしい。玉木は「Xを見て自分の考えを決める人」なのだから、担がれるにはちょうどいいのではないか?
いざ首相になってしまえば個人の権力がものすごく強くなってしまうから、いまは怖気づいている玉木も、そのうちすっかり調子づいてくるだろう。
そうして玉木が図にのってやりたい放題やり始めれば、立民が不満を持ち始めて内紛が起き、たちまち玉木政権は崩壊する。そうすれば次の首相は立民から出ることになるだろう。
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その時に皇統問題で公明党が「男系絶対」なんて言うわけがないから、あとは立民が内部の男系派の顔色をうかがって「足して2で割る」式の妥協をしたりせずに、あくまでも愛子天皇という方向に着地してくれればいい。
わしは常に愛子さまの立太子を実現するためだけに政局を考えている。その見方からすれば、このシナリオが一番早くて都合がいい。
そして今回の件で高市が失脚して、高市を推した麻生太郎の影響力がついに完全に終わるというのも、最もいいことである。
麻生も小泉進次郎を担いでいれば、進次郎はリベラルだから公明党も離脱せずにまだ寿命が続いたはずなのだが、ついにこれで命取りになってしまった。
やはり保守はリベラルを内包するものであり、愛子天皇を主張するならフェミニズムでなければいけないというくらいの感覚がわしにはある。この点に関しては、わしは自分をフェミニストとしており、上野千鶴子なんかフェミニストじゃないという感覚だ。
ナショナリズムとフェミニズムの融合点は、愛子さましかない。
そして愛子天皇の実現に向かうしかないというのも、時勢なのである。
やっぱり時勢というものには逆らえない。
時勢が自分にとって、完全に都合がいいなんてことはありえない。むしろ不都合であることの方が圧倒的に多い。でも、いくら不利でもやるしかないという事態は起こるものだ。
時代を自分の意図通りに操作できるなんて思ったら大間違いで、むしろ気がついたら時勢によってとんでもないところに突っ込んでいる可能性だってある。
しかしもうそれはやむを得ないことである。石破の「戦後80年所感」みたいに、後世の人間が「なぜあの時代にうまくやれなかったのか」なんて言ったって全く無意味だ。その時代の中で、自分がどう生きるかということを考えるしかないのである。
自分の行動をいつも設計主義的に、完璧に全くミスもなく計画通りに成し遂げるなんてことができるわけがない。
いつでも不測の事態は起きるもので、安全な道だけを歩くことなどできない。だから、もう勢いで突き進むしかないというところもある。
理想的な死に方を自分では選べないのと同じことで、いくら自分で周到に考えていたところで、絶対に思い通りにならないことは出てくる。それはもうどうしようもないことで、神様の思し召しの通りになっちゃうとしか言いようがないのだ。
その時勢に逆らって、果たすべき役割を果たさない者は愚か者である。
ましてや、自分が今の時勢の中で何もしていないにもかかわらず、過去の時代にその時勢の中で必死に生きた人々を、後世に生きているというだけで上から目線で批判し断罪する者など、愚にもつかない馬鹿だとしか言いようがない。
その時その時に時勢をちゃんと見極めて、時勢によって自らに求められた役割を引き受けられるかどうかが、人間の価値の核心だといえるのである。
(『小林よしのりライジング』2025年10月14日号より一部抜粋・敬称略。続きはメルマガ登録の上お楽しみください)
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