
『広橋守光: 戦国期公家官僚の実像』(八木書店)著者:柴田真一
戦国期に公家社会と武家政権の狭間で尽力した武家伝奏・広橋守光。
その日々の政務を綴った日記『守光公記』には、室町幕府との交渉記録や関連文書が詳細に記され、武家伝奏として公武間の折衝に心を砕く守光の実像がうかがえる。本書では『守光公記』と守光の生涯を通じて、当時の公武関係の実態や社会状況を多角的に解明する。
『守光公記』を通じてみた広橋守光が生きた時代
八木書店より、『広橋守光 ―戦国期公家官僚の実像―』を刊行した。主要な史料として使用している『守光公記』の翻刻が完成するまでに32年を要している(『史料纂集古記録編 守光公記』1・2、八木書店、2018・2020年)。この間、校正のため、何度も『守光公記』の全ての記事を読み直していく過程で考えたことがあった。それは、何かのテーマについて、重要な関係があると思われる記事を探して、それに基づいて考察するだけでは、見逃してしまうことがあるのではないかということである。
そこで、本書では、記事を読み進める過程で気になったことがあれば、少しでも関係があると思われる『守光公記』などの記事を抜き出した上で、考察することを試みている。
以下、このような考察に基づいて気がついたことの一端を示す。

公家の雑掌とその手勢
文亀2年(1502)7月27日、守光は日野内光一行と喧嘩に及ぶ。内光は、足利義澄の細川政元邸渡御に伺候していた。その帰路、遊山に出かけていたと思われる守光の一行と互いに雑言に及び、太刀や弓矢を使った大規模な喧嘩となる。このとき、内光側は五、六十人いたという。喧嘩の状況から、守光側も同じくらいの人数がいたものと考えられる。つまり、守光側も内光側と対等に戦える程度の人数を連れて、遊山に出かけていた訳である。ところで、伊勢国司北畠材親と国人長野尹藤が合戦に及んだ影響で、禁裏料所伊勢国栗真庄からの貢納が納められなくなった際、守光は解決のための交渉に当たった。『守光公記』永正10年(1513)12月3日条によると、栗真庄地下から、上使として下向していた中山家雑掌の大口雅善では効果がない。人数を五、六十人連れた上使を下向させてくれるなら、上使に協力するとの申し出があった。
この五、六十人という人数は、上述の喧嘩において双方が引き連れていた人数と同じである。本書では、広橋家に仕えた藤堂氏、速水氏が、近江国の有力な武士の一族であることを述べている。このような人々を通じて、必要があればこの程度の人数を近江国から動員できたのではないだろうか。
勾当内侍の判断により栗真庄に派遣された加田二郎左衛門も、近江国の武士の一族で、伯家に仕えていた。派遣されたとき人数を引き連れていたのかは不明だが、栗真庄の貢納をある程度回復させることに成功していたと思われ、一定の人数を引き連れていた可能性が考えられる。
若い頃の守光は、武装して鈎陣の足利義尚に供奉している。これも、単に室町殿に供奉するというのではなく、藤堂氏などが動員した手勢を引き連れて参陣し、義尚の武力の一端を担っていた可能性が考えられる。
中山宣親、大宮時元、濱嶋清兼と伊勢国
この3名は、いずれも伊勢国に何らかの関係を持っていたと思われるが、なぜ関係を持つようになったのかについては、明らかにすることができなかった。(1)中山宣親
上述のように、中山家雑掌を上使として栗真庄に下向させている。また、三条西公条が主導して、無沙汰がないにも関わらず、木造から岩内に伊勢国白粉座代官職を改替する際に、あらかじめ宣親に相談している。
『守光公記』永正9年7月17日条には、木造政宗が北畠材親のもとに向かう途中で落馬し、同月8日に死去したため、木造俊茂が贈官のことを申し出ていることについて、宣親が守光のもとを訪れて相談している。これは、従来知られていなかったと思われる、政宗が亡くなった日付が分かる記事でもある。
このようなことから、宣親は伊勢国に何らかの関係を持っていて、材親や政宗、長野尹藤などと交渉できる立場にあったのではないかと考えられる。
(2)大宮時元
栗真庄からもたらされた加田二郎左衛門の注進状は、大宮時元が代筆しているので、その頃伊勢国に在国していたと思われる。その後も、時元は二郎左衛門と共同して栗真庄の対処に当たっていると思われ、時元自身も伊勢国に何らかの関係を有していた可能性がある。
(3)濱嶋清兼(入道道林)
濱嶋清兼は、朝餉関を近江国高嶋から伊勢国宮川に移すに当たって、木造政宗を通じて北畠材親と交渉している。また、永正12年から天文2年(1533)まで、清兼が栗真庄貢納の運上に関わっていたと考えられる。
このようなことができるのは、清兼が伊勢国に何らかの関係があったからではないか。北畠氏、木造氏との関係を使って、貢納の運上を実現していたのであろうか。
この他にも、金春禅鳳が東国に下向していたこと、不明とされていた後土御門天皇皇女大慈光院宮の薨去日付が分かること、松波氏は、日野家に仕えた系統の他に、広橋家に仕えた別の系統があったこと、『守光公記』でしばしば「東隣」と表現される高辻章長邸は、「隣」という言葉から想定されるものとは異なる位置関係にあったこと、永正期には、上御霊社だけではなく下御霊社も室町殿が参詣できる程度に復興していたこと等、様々な指摘を行っている。
[書き手]
柴田 真一(しばた しんいち)
1954年生まれ。1977年3月関西大学文学部史学科卒業。中世公家日記研究会会員。
[主要論文・著作]
「永正期の広橋家領について」(鶴﨑裕雄編『地域文化の歴史を往く ―古代・中世から近世へ―』和泉書院、2012年)
「大乗院尋尊と伝奏広橋兼顕の確執」(『大乗院寺社雑事記研究論集5』和泉書院、2016年)
『政基公旅引付本文篇・研究抄録篇・索引篇(日本史史料叢刊1)』『政基公旅引付影印篇(日本史史料叢刊2)』(共同研究、和泉書院、1996年)
『守光公記(史料纂集)』1・2(共同校訂、八木書店、2018年・2020年)

1 時間前
1





English (US) ·
Japanese (JP) ·