原発避難者への東京都の惨すぎる仕打ち〜避難者に届いた1200万円の請求

1 ヶ月前 19

あなたは2011年3月11日、どこで何をしていただろうか。 

私は六本木で、インド人のブッカー賞作家、アルンダティ・ロイさんとの対談を終えたところだった。編集者と昼食を取り、午後はロイさんが靖国神社に行きたいというので案内することになっていた。

そこを襲った、人生で初めて経験する大きな揺れ。電信柱も東京タワーも遠くのビルも見たことがないほど揺れていて、しかし、正常性バイアスなのだろう、そのままみんなで予定通り靖国神社へと向かった。

移動するタクシーの中で、野外に避難している人の多さに気づいて「やはりただごとではない」と気づいた。神社到着と同時に帰ろうとするもすでにタクシーなどつかまらない状態。それでもなんとかつかまえて、数時間かけて自宅に辿り着いた。 

それから数日のことは、断片的にしか覚えていない。 

津波の映像に言葉を失い、原発事故で完全に脳のキャパオーバーとなり、空っぽになったコンビニやスーパーの棚に途方に暮れ、それでも被災地を思うとそんなことで困ることなど贅沢に思え、余震に怯える猫を何度も抱きしめた。

それからすぐに、この国では「ベクレル」や「シーベルト」、そして「メルトダウン」なんて言葉が一般語になり、避難指示や居住制限区域なんて言葉も日常でよく耳にするようになった。まるで映画のようなことばかりが立て続けに起きて、だけどあれから15年、私は、「ベクレル」や「避難指示」といった言葉を少しずつ、忘れていった。

だけど、忘れたくても忘れられない人たちがいる。そして今も、故郷に戻れないままの人たちがいる。26年5月時点で、原発事故による避難者はいまだ約2.5万人。最大時の16万人と比較すれば大分減ったが、15年経ってもこれだけの人が避難しているという事実に、原発事故の取り返しのつかなさをひしひしと感じる。しかもこの国はいまだ原子力非常事態宣言中だ。 

私には、避難者の友人が何人かいる。

関係が深まったのは、一時期たまたま避難住宅の近くに住んだこと。一人暮らしの私の家でよく飲み会をするようになり、そこには避難住宅の子どもたちもよく遊びに来た。うちに2匹の猫(1代目のぱぴ・つくし)がいたからだ。子どもたちを迎えるだけでなく、私がぱぴ・つくしを連れて避難住宅に遊びに行ったこともある。

突然故郷とも友達とも引き離されて東京での生活が始まった子どもたち。言語化できずとも当然それぞれに傷ついていたはずで、そんな子どもたちにとって猫たちは癒やしになったようだった。日々大飯を食らい、寝て遊んで排泄するだけの我が家の猫が、初めて「役に立った」ようで誇らしかった。

避難してきた友人たちは、いつも福島がどれだけ素晴らしいかを語ってくれた。景色はもちろん、魚や野菜の新鮮さ、山菜などの恵み。それまで福島は数度行っただけだったけれど、いつも話を聞いているうちに私はかの地にすっかり詳しくなり、そんな場所を原発事故が奪った事実に改めて、打ちのめされた。

そんな避難住宅だが、友人たちはもう住んでいない。

ここで基本的なことをおさらいすると、避難住宅とは災害救助法に基づき、東京都が提供した住宅。「みなし仮設住宅」などと呼ばれ、3・11後、避難区域、あるいは区域外から避難してきた人たちに都営住宅や公務員宿舎などが無償で提供された。そのことは、避難生活、そして生活の立て直しの大きな支えとなってきた。しかし、10年ほど前から避難住宅無償提供の打ち切りが開始される。

17年3月には区域外避難者への提供が打ち切られ、18年からは順次、区域内の避難者への提供打ち切り。今年3月からは原発にほど近い大熊町、双葉町からの避難者への提供も打ち切りとなった。避難指示が解除されたり復興公営住宅が整備されたことなどが理由だ。

しかし、提供打ち切りと一方的に決められても、すぐに出ていける人ばかりとは限らない。避難している中には高齢者もいれば母子世帯もいる。病気などですぐに引越しできないという人も当然いる。新しい場所を探すといっても、東京の家賃は高い。物件探しの支援もあるにはあったそうだが、十分なものではなかったようだ。

一方、帰りたくても自宅近辺の放射線量がまだ高いという人もいるし、10年も東京にいれば、生活の基盤が避難先に移っている。子どもがいればなおさらだ。

よって多くの人が、打ち切り後も「出るに出られない」時期を過ごした。一人ひとり、事情も違えば今後の展望も違う。もちろん、故郷の放射線量なども違うわけで、一律に打ち切られても「はいそうですか」とすんなり対応できるはずもない。

このようなことから、避難者たちは無償提供の継続を求めて東京都に要請を重ねてきた。話し合いをしてきたのは、避難者たちによる「ひなん生活をまもる会」。しかし、21年12月、都の担当課長は「退去しなければ提訴する」と血も涙もないことを宣言。そうして22年2月、実際に東京都は避難者の一人を提訴。そうして25年、避難者の敗訴が確定。

また24年には、避難住宅に住んでいた避難者を立ち退かせるため、わかっているだけで4件の強制執行も行われている。うち一世帯は母子世帯。持病などにより家賃を払える物件が見つからず転居できずにいたという。

そうして25年11月、東京都はすでに退去した避難者らに、無償提供打ち切りから引っ越すまでの使用料(家賃)の請求を始めたのだ。今年5月からは具体的な金銭請求を始め、6月には4世帯に対して「催告」を特定記録郵便で送りつけたという。もっとも多い人で、請求額はなんと1200万円以上。

そのような東京都の暴挙に対し、避難住宅に住んでいた15世帯によって「東日本大震災避難住宅不当請求対策会議」が結成。6月26日、東京都に抗議文を手渡し、記者会見をするというので東京都庁に向かった。

「(避難住宅から)出て3年以上も経ってるのに、急に封書が送られてきて、使用料が発生していると。子どもは大学生になっていて、『自分はもう大学辞めなければいけないんじゃないか』とストレスを感じています。家族全員、またあの震災当時に戻されて不安な毎日が続いています」

記者会見でそう述べたのは、居住制限区域から子ども、両親と避難してきたという女性・A子さん。都営住宅が提供されていたが、20年4月、居住制限が解除となり、無償提供が打ち切りとなった。

しかし、解除と同時に自宅は空き巣に入られてしまう。被害届を出しに行く際に自宅玄関の放射線量を測ると、5ミリシーベルトもあった。原発事故から、この時点で9年も経っているのにだ。しかも「戻りたい」という思いが強く、除染もしてもらっていたのにこの数値。

結局、彼女は東京で引越し先を探し始める。が、ここから自身や家族の病気が立て続けに襲いかかる。

まず19年、夫が手術することになり、翌年には自身が免疫不全の病気で緊急入院。そこにコロナ禍が重なり不動産探しは難航し、今度は夫が脳出血で入院。翌年、娘に腫瘍が見つかり手術と、物件探しどころではなくなるのだ。

ちなみにAさんと同じく都営住宅を避難住宅としていた人たちの多くは、そのまま残ることができたという。が、彼女の夫は被災当時、東京に単身赴任中。そのことを理由に「あなたたちは被災者じゃない」と言われ、残れなかったという経緯もあった。

そんな中だがなんとか物件を探して民間住宅に引っ越したのが3年前。それが最近になって突然、「出るに出られなかった期間の使用料(家賃)」の請求が東京都から来たのである。

しかも請求額の一部はすでに消滅時効となっているにもかかわらず、全額請求しているというから意味がわからない。またすでに民間住宅に住む避難者のもとに電話もなく突然多人数で訪れ、執拗に支払いを求めることもあるというからびっくりだ。

会見にはもう一人、やはり避難してきた男性も登壇した。男性も都営住宅を提供されていたが、打ち切り後も住み続けるには世帯月収が33万円以下でなくてはいけないと言われ、引っ越しを余儀なくされたという。大学生の息子がバイトしながら学費などをまかなっているため、どうしてもその額を超えてしまうのだ。

「まだ我々をいじめるのか。怒りを感じます」

男性は声を震わせた。

原発事故で避難した人への、冷酷な仕打ちに言葉を失った。

思い出すのは震災当時、体育館などが避難所とされていた時のこと。あの時、私の周りでは「避難所からは『持つ者』から出ていく」ということが常識として語られていた。

お金がある人、親族がいる人、頼る先がある人は避難所からどんどん出ていく。一方で、経済的な余裕がなかったり、頼る先や迎えてくれる親族がいない人はなかなか出ていけない。

避難住宅にも、そんな面があるはずだ。出ていくのが遅れている人ほど、困難を抱えている。だからこそ手厚い支援が必要だという視点は不可欠だと思うが、避難住宅に関してはそんな人たちが強制執行されたのだ。

ちなみに先に避難住宅に猫を連れていったことを書いたが、私がよく訪れていた避難住宅は元公務員宿舎。すでに使わなくなった建物で、そこは激しく老朽化し、エレベーターもなく物件内の設備も昭和のままで、非常に不便な物件だった。そのような場所の使用料を請求するということ自体、本当に理解に苦しむ。

そもそも、福島第一原発で作られていた電気は東京で消費されていたわけである。それなのに、なぜ都はこれほど冷たいのか。

海沿いに多くの原発を抱える災害大国・日本。最近、全国各地で地震も増えている。原発事故の避難者を見捨てる国は、未来の被災者もあっさりと見捨てるだろう。その未来の被災者は、私たちかもしれないのだ。

東京都には、被災者に寄り添う対応を心から求めたい。  

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