
『海軍式サービス業発想: 砲術参謀新田善三郎の先見に学ぶ』(ダイヤモンド社)著者:田辺 英蔵
木村 熱海後楽園ホテルの前社長であり、日本で初めてのスクーバ・ダイバー用ヨットを建造したヨットマンでもある田辺さんが、第一ホテルの新田善三郎さんの言動を通して、サービス業のあるべき姿を、またサービス業から見た人間論を展開した本です。
新田さんは、海軍の砲術参謀だった人で、海軍によって裏打ちされた合理的精神と日本的精神をあわせもち、「スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」という海軍魂を、ホテル業にも適用したわけです。
もともと陸軍はメーカー、海軍は商人に似た性格があると私は思っていますが、新田さんは上官から、海軍の参謀は、「自分を他入に売りこむセールスマンの勉強をせよ」といわれたそうです。また兵学校で士官候補生が要求された徳目は、意外なことに「人間関係」と「表現能力」でした。もっとも「人間関係」という言葉は当時なくて、「統属協同能作」といったそうですが――。自分の考えを正確・簡潔な言葉で伝えないことには、部下は動けない。黙って「俺についてこい」というのではダメなわけです。
しかし、いざ実戦となれば、自分は表面に出ず、部下を信頼してやるだけやらせる。これはホテル業でも、従業員、客に対する信頼が大事だということと通じるわけで――
世の中の人々の大部分は善意で正直だという信念の上に、ホテルという産業は成り立っています。出入口は開放され、サインで飲食ができ、廊下まで自由に人が出入りします。その自由と開放性ゆえに、ホテルは人々に、気軽に、便利に利用されるようになり、市民生活の中に溶け込み、今日の繁栄を築いたのです。人間の善意を信頼した開放性こそホテルの生命です。ついでに言えば、その逆が日本の旅館です。わが国の旅館は人を見たら泥棒と思え、という哲学の上に組み立てられています。(略)コーヒーショップでお茶でも、と都市ホテル並みに考えて入ろうとする客に、玄関番が、どちらへおいでですか、お泊りですか、と詰問します。旅館の主人は、客も従業員も信用しません。
そしてサービス業では“人間通”であることが要求されます。ユーモアが大切ですし、たとえば客がどなりこんできたら、新田さんは“三変主義”で応対せよ、場所、人、時間の三つをかえろというんですね。その場で応対せずに、別室へ案内する。客を怒らせた張本人にかえ、社長などしかるべき人間を出す。そうこうするうちに時間が経過し、双方とも冷静な判断ができる――私は、アランの「人間論」を思い出しました。
ウェイトレスは“食事運搬人”であってはダメで、一皿でも余計に売り込まなければいけない。料理に「松・竹・梅」の三つを置くのは、「竹」を積極的に売るためだ、と新田さんは従業員に教えています。
旅館に予約をしないで泊れる法、なるものも披露してあります。「やあ、久しぶり、お千代さんは元気かい」と番頭さんにいう。どこの旅館にもお千代さんという女中さんは一人くらいいる。お千代さんが出てきたら、「やあ、その節は世話になったね」と笑いかける。自分の名前を覚えていてくれたというので、お千代さんは未知の客に「まあ、お久し振りでございます。さあどうぞ」……。(笑)もしお千代さんがいない場合はどうするか。新田さんいわく「隣の旅館へ行って、同じことをやります」。(笑)
という具合に、人の心を把む術が、沢山書かれています。それと同時に、サービス業から見た人間学的考察が豊富になされておりまして、とても興味深い本でした。
丸谷 田辺英蔵さんは小林一三の甥で、東北大学を卒業している方なんですね。そういう方が後楽園の副社長になり、熱海後楽園ホテルの社長になった。ホテル業の師匠の新田さんが言ったように、当然、もっと大人数の組織を掌握する立場になるはずの人だったと思うんです。それがどういう訳か、五十代の半ばで相談役になり、ヨットで遊んでいるという身分になった。その時、自分の知っているサービス業についての知恵を後進に語りたい。そういうつもりで書いた本だろうと思います。
ただし、この人は粋な人で、自分の言葉として書く泥臭さをいさぎよしとしなかった。それで自分の師匠である新田さんの聞き書きという形をとったんだと思います。ちょうど庄内藩の家老菅実秀が自分の考えを「南洲翁遺訓」という形で書いた、というのと、非常によく似ている。どうもそんな気がします。
山崎 なるほど。じつに鋭い洞察だ。
丸谷 この形で書けば、みんなが納得しやすい。それは「シャーロック・ホームズ」物をホームズ自身が語るという形にしたら、「何だこいつは、自慢ばかりして」と反発をくう。ところがワトソンが語るという形にしたもので、シャーロック・ホームズは偉いとみんなが思うようになった。その態度を田辺さんは学んでいるんですね。なかなかの才能です。
その才能は文章にも発揮されていて、
週日に観光地へ繰り込むには理由がいる。会社の慰安旅行、招待旅行、商品の展示販売招待会、優秀特約店ご招待、同窓会、戦友会、研修会、セミナー、講演会、勉強会、組合の大会、経営者の大会、政治家の会合……。
それぞれに立派な理由があるから、公式行事の後、人々は心おきなく飲み騒ぐことができる。ほとんどの場合、大広間での宴会となり、余興があり、芸妓さんが入り、二次会があり三次会があり、そのためにホテルはショーを用意し、キャバレーがあり、近頃はディスコ、カラオケ専用のバーも必須施設となった。
人々は、当然ながらへべれけとなり、年に何回かは廊下で粉末消火器のテストをなさるお客様が現われ、普通日本人のお客様は飲む時は食べられぬゆえ、夜半におなかがすかれるから、十二時過ぎ頃からラーメンコーナー、寿司店は大繁盛、その頃から部屋ヘマッサージを呼ばれるお客様も増え、団体同士で(たいていどちらかの会社のきれいな女子従業員の方がからみ)立ち回りとなり、あるいはまた、街に繰り出されたお客様のグループが、通りですれちがった他のホテルの団体の方とサヤ当てが始まり、わがホテルのお客様が(なぜか、常に)勝って相手を袋だたきになされば、顔見知りの警察へもらい下げにうかがい、暁方まで件のお客様の武勇談の話相手を務めるのは熱海後楽園ホテルの副支配人である。
この文章の淀みのない書き方、流れるようなリズム、敬語法を使うことで滑稽感を増幅する技法、大変な文章力ですね。
ただし、時々、不必要な横道に入るところがある。そういうところを削って、一割くらい短くすると、凄い本ができましたね。
山崎 私は一年のうち五分の一はホテルで暮していますので、ホテルの裏話というのがまず気になりました。掃除の入が灰皿のタバコを水洗トイレに抛り込み、便座を雑巾でサッとなでて「消毒済」という紙を貼りつける。こういうことを書いて大丈夫なのだろうかと心配になります。(笑)新宿の某大ホテルでは、アベックを受け入れることによって一四〇%部屋を使っているとか、ホテルで客が死にかけると、決してホテル内で死なせるな、生きているうちに外へ出せ、という教訓があるとかいろいろ勉強になりました。(笑)
それにしてもこの本は、丸谷さんがおっしゃったように、田辺さんが新田善三郎という人物に事寄せて、いわば二人の共同の思想として、大衆化時代のサービスを論じているのだろうと思うんです。
新田さんは新橋第一ホテルの企画部長であり、重役だったそうですが、余談をいうと、昔、第一ホテルに泊ると、部屋が狭くて合理的にできていて、まるで潜水艦の艦内だなと思ったものですが、果せるかな、軍艦の砲術参謀が重役をなさっていた……。(笑)
新橋第一ホテルというのは、言うまでもなく、小林一三が大衆化時代のホテルとして造ったものであり、著者はその甥にあたる。そこにはいろいろ複雑な心境があることがよく分ります。
まず、帝国ホテルがことごとに引き合いに出されて皮肉られている。それほど帝国ホテルが貴族的なホテルだとは私は思いませんが、それすら敵に見えるほど、この人たちはホテルの大衆化のために働いた。
しかし、その大衆化ということが実に難しい仕事であることも、田辺さんは述懐しています。たとえば、ホテルに割箸や醤油を導入することに賛成しながらも、ホテルにはメイン・ダイニングルームの朝の緊張した雰囲気がいつまでもなくなっては困るという。
さらにホテルの従業員は決して客の友だちであってはならない。サービスするものと、されるものとの間に、様式性というような緊張した関係が保持されなければ、サービス業は到底成り立たない、という気持を持ちながら、一方で大衆化の道を歩んでいく。そういう矛盾が私には面白いところでした。
ホテルというのは何パーセントかの籠脱けを最初から見込んで成り立つ商売である。その上で人びとに自由を与えていると、新田さんはいうんですね。それを裏返していうと、そこを利用する側に最低限度の倫理、美意識が要求される。ところが大衆化は、ともすればそのけじめを押し流してしまう。
木村 新田さんは、大衆化とともに日本化ということをいっていて、箸とお醤油をホテルのレストランにおいた。これはぜひ、他のホテルでも見習ってもらいたいと思うんです。
日本のホテルは、そこだけが欧米文化の島のようになっていて、醤油もないし、箸をもってこない。わが家の夕食でナイフ、フォークを使う人は、まずいないでしょう。それなのにレストランではナイフとフォークで食べるから、どうしてもよそ行きの気分になり、胃の底ヘステーキがストンと落ちない。途中でつっかかってしまう。(笑)家へ帰ってやっと緊張がとけ、お茶づけで食べ直そうということになる。(笑)いい塗りの箸をレストランに置いておけば、日本人は助かるし、外国人なら日本のお土産になります。
もう一つは草柳大蔵さんの言葉を借りて述べているわけですが、ホテルマンたるもの、土地の情報に精通していなければならない。この点は本当に日本のホテルで欠けているところで、近くにどんな名所旧跡があるか、きちんとした資料や地図が置かれていたためしがない。ホテル内のレストランが何時まであいているといったことは仔細に書いてありますけれど。
丸谷 一体にホテル内のレストランやバーには行かせたがって、外の料理屋に行くのは、何となく邪魔するような感じがありますね。
山崎 ホテル側に同情するわけではありませんけど、日本のホテルは食事で稼いでいるんです。部屋代はパリでもロンドンでも東京の倍取ります。むこうは部屋代で稼いでいる。もう一つは、むこうのホテルは大体、老朽化していて償却ずみなんです。東京のホテルは大部分、目下償却の途中で、経営は苦しい。そうすると食べもので稼ぐほかないんでしょうね。
丸谷 しかし、あの態度を示されると、反発して、ホテル内では一食も食うものかという気になる。(笑)あれは大変な損ですよ。
山崎 私が常宿にしている某ホテルの前には以前、屋台の支那そば屋が出てまして、名をあげればみなさんご存じの、かなり有名な客たちが群がりあっていた。(笑)
丸谷 たとえば山崎正和氏。(笑)
木村 土地の旨い店を知らせるくらいの雅量は、これからの地域文化のセンターたるべきホテルに欲しいところですね。
山崎 でも私には、海軍の参謀そのものがサービス業だという指摘は発見でしたね。人を動かすのが参謀、ましてや人を死なせるのが参謀。そのためには、まず自分の考えを味方に説得するのが最初の仕事になる。その説得の部分はまさにサービス業で、それはお座敷芸を含む宴会の技術にまでつながっているというんですね。
木村 恐しいことを著者は言ってますね。酒席の能力と人間の魅力は比例すると。(笑)
海軍はいつも世界中にアンテナを張って刻々の情勢を見ているという点で、全体が知的集団なんです。商品に似ています。その点、陸軍は大地に目がひっついて、体力、腕力の塊りです。
山崎 元陸軍が怒りませんか。(笑)
木村 もう一つ意外だったのは、日本のホテル従業員千人のうち九百九十九人までが客に自尊心を傷つけられている。盗んだという疑いをかけられたりして、日々泣いているという話ですね。
山崎 その点が私も一番感銘をうけたところです。大衆化時代のサービス業の本当のつらさを、この人たちが感じているということだと思うんです。昔だと客は王侯貴族で、サービス業は召使いだった。王侯貴族は下手な疑いなどかけないだろうし、もしかけられたときは、もう泣くどころの話ではない。いまなぜ彼らが泣くかといえば、もともと同じような人間がやってきて、ただ客だというだけで威張る。理不尽なことを言われても一方的に頭を下げてなきゃいけない。しかし、その救いが芝居だというのが面白いですね。
丸谷 ロールプレイング法ですね。意地悪な客の役と、それに応対する役とを二人で演じさせることで、従業員を訓練する。
山崎 真のサービス業は卑屈でもなく傲慢でもなく、その中間にあると田辺さんは言っているわけですね。その中間というのは、お芝居というもので、本当に敬っていないけれど、敬っている振りをする。奴隷ではないが、慇懃にお辞儀をしてみせる、ということなんです。
丸谷 ところで、私がこの本でショックだったことの一つは、新田という人が、二十年三月に大本営の参謀になり、同じ年の十一月、つまり、敗戦後三ヵ月にして、熱海第一ホテルの支配人に就任した。何という機敏な態度。(笑)
この機敏さの背後にある、人生に対するなめ切った態度、濛々とたちこめるニヒリズムに驚きました。この濛々とたちこめるニヒリズムが、実はあらゆるサービス業の背後にあるんじゃないのか。銀座のバーのマダムもホステスも、みんなこういうニヒリズムをもって、我々に接しているんだなあ、と思いましたね。(笑)
山崎 小説家というサービス業もそうじゃないんですか。
丸谷 それは最初から分っている。(笑)
木村 攻撃の打切りと退却の時を知り、決断するのが艦隊参謀であると書いてありますね。まさに新田さんは海軍軍入だったんですよ。(笑)
丸谷 一ヵ所、不満があります。「フリーの客」と書いてある。英語だと思っているんでしょうが、なじみでない一見(いちげん)の客のことを「振りの客」というのは日本語です。(笑)
山崎 ぼくはタダの客のことかと思った。(笑)
丸谷 サービス業の教師をもって任じる人は、こういう間違いをしないでもらいたい。
木村 しかしともかくも、サービス業のテキストとしてぜひ読んでもらいたい本です。
山崎 サービス化時代の、すべての企業人のテキストですね。

『海軍式サービス業発想: 砲術参謀新田善三郎の先見に学ぶ』(ダイヤモンド社)著者:田辺 英蔵
【初出メディア】
文藝春秋 1984年10月(第62巻第11号)
http://bunshun.jp/list/magazine/gekkan-bunshun

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