「働く単身者の税・保険料負担、過去最高33%に 世界に逆行」
日経新聞の6月1日の記事を見て、思わず脳の血管がブチ切れそうになった。同時に動悸・息切れの症状も襲ってきて、気がつけば我が家に存在するはずのない「救心」に手を伸ばしかけるなどしていた。
記事によると、単身世帯は家族世帯より控除や給付が少ないとのことで、単身勤労世帯の社会保険料は25年で約52万円。2000年と比較すると4割もアップしているそうだ(総務省統計)。ちなみにその間「所得税などの直接税の負担額は13.8%増えた」とのこと。
だからか!!思わず叫びそうになった。この数年、「働けど働けど我が暮らし楽にならざり」という言葉が常に頭のどこかにあった原因がはっきりと、わかった。特に役所から税金・保険料の通知が来るたびに、「正気か?」と目を疑うことが続いていた。一度など「何かの間違いでは?」と思い、役所に電話をかけたほどだ。
しかし、世知辛いことに、それは「間違い」などではなかった。
国はなぜ、大して稼いでもいない私から容赦なく税・保険料をむしり取っていくのか。
しかも、同記事によると2000年と比較して「勤め先からの収入の伸びは7.5%」アップしたという。が、私は2000年にデビューして四半世紀、原稿料がアップしたことなど一度もない。逆に「出版不況」などの言い訳で下がり続けているというのが現状だ。よって昨今の世間の賃上げにも思い切り置いてきぼりを食らっている。これが出版業界という斜陽産業にしがみつくフリーランスの実情だ。どうだかわいそうだろ。
さて、そんな記事を読み、最近読んだ2冊について書きたくなった。
それはA.R.ホックシールドの『盗まれた誇り 喪失と恥と右派の躍進』(岩波書店)と、伊藤昌亮氏の『曖昧な弱者の時代』(岩波新書)。
まずは『曖昧な弱者の時代』から紹介したいのだが、私は伊藤氏が23年に書いた「ひろゆき論」に大きな感銘を受け、imidasの連載で以下のような原稿(「私が『冷笑系』だった頃〜リトルひろゆきたちとの楽しくも不毛で、だけど必要だった日々」)を書いている。
また、25年にはデモクラシータイムス内でやっている「雨宮処凛のせんべろ酒場」にもご出演頂き(「石丸・玉木・斉藤現象を読み解く」)、最近ではimidasの「“普通の日本人”のあいまいな不安」という連載の第1回にもご登場頂いている(現在、第5回目まで公開中なのでぜひ)。直近では、4月5日、12日の朝日新聞でも対談した。
ぜひ読んだり観たりしてほしいのだが、私は伊藤氏が掲げる「曖昧な弱者」という言葉によってあらゆることが整理された一人だ。そんな「曖昧な弱者」についてわかりやすく書かれているのが、「オールドなものへの敵意」と題された第4章。
ここで伊藤氏は24年の東京都知事選と兵庫県知事選、そして国民民主党が躍進した衆院選について、「新旧対立」という言葉を用いて説明する。いずれの現象にも通底するのが「オールド連合」と「ニューなわれわれ」という図式だ。
「オールド連合」とされるのは、高齢者やオールドメディア、地方議会や公務員、また高齢者の票をあてにし「優遇」する既成政党など。都知事選や兵庫県知事選では「既得権益」であり「既成勢力」とされるそれらを鮮やかに「斬る」石丸氏や斉藤氏の姿が喝采を浴びたのは記憶に新しい。
なぜ、オールドなものは憎まれるのか。それを理解するのに重要なキーワードは、「弱者のネオリベラリズム」だ。
例えば24年の自民党総裁選で、ホリエモンなどの「ニューなわれわれ」系インフルエンサーは軒並み「解雇規制の緩和」などを訴えた小泉進次郎氏を支持。金融所得課税強化に触れた石破茂氏へ反発する姿勢だったという。
が、そのような考えを支持するのはホリエモンやひろゆき氏だけではない。
以下、引用だ。
「むしろ生活苦に苛まれている現役世代や、将来不安に怯えている若者世代など、弱者の立場にいる、もしくは自らを弱者だと捉えている多くの人たちもまた、そうした競争主義的で市場主義的な考え方を信奉している」
そこには従来の見方からすると、二つの意味での顚倒(てんどう)があると伊藤氏は指摘する。
「第一に従来は、高齢者こそが弱者であり、現役世代や若者世代は強者に当たるものと考えられていた。しかし彼らからすれば『既得権益』の上にあぐらをかいている『既成勢力』としての高齢者は、むしろ強者であり、それを支えるために税制や社会保障制度を通じて搾取されている自分たちこそが、実際には弱者だということになる。
第二に従来は、競争政策を支持するのは強者であり、弱者は保護政策を支持するはずだと考えられていた。しかし彼らからすれば、『オールド連合』による保護政策は彼らを保護してくれるものではなく、逆に搾取するものであり、だとすれば誰も保護されることのない自己責任の競争社会のほうが、むしろ安楽だということになる」
それが「弱者のネオリベラリズム」なのだ。
そのような人々の怒りは、しばしば保守派よりもリベラル派に強く向けられると伊藤氏は指摘する。
なぜなら、「昨今のリベラル派はとりわけ多様性の観点から、マイノリティを苦しめている文化的な弱者にばかり目を向け、彼らを苦しめている経済的な弱者性のことを気にかけているようには見えないから」だ。
それどころか「『誰が弱者なのか』を一方的に決め、自分たちが守りたいものだけを守ろうとしているように見えるリベラル派の中に、彼らは強く権力性を見出し、さらにそこで守られている存在、すなわちマイノリティの中に『既得権益』を見てとる」
この20年、公務員バッシングに始まり生活保護バッシング、障害者ヘイト、高齢者ヘイトといった「自分より楽して得してズルしてそうな誰か叩き」が繰り返され、この1年は外国人ヘイトが凄まじいが、その心理の一端を明確に言い当てている文章ではないだろうか。
そんな「曖昧な弱者」を、リベラルはどう見ているのだろう?
第7章「『曖昧な弱者』とその敵意」で、伊藤氏は「曖昧な弱者」がリベラルの弱者リストに載っているような「明白な弱者」――失業者や障害者、高齢者、LGBTQ、女性や被差別部落民、外国人などなど――に敵意を抱く背景に触れつつ、以下のように書く。
「つまりリベラル派の多くには、『曖昧な弱者』の存在は入っていないだろうし、見えているとしてもその姿は加害者、差別者としてのものであり、『尊重』すべき対象として捉えられているわけではないだろう」
この一文を読んで思い出したのが、先に紹介した『盗まれた誇り』だ。著者のホックシールド氏の名は知らなくとも、『壁の向こうの住人たち』という本のタイトルを聞けば「あ!」と思う人も多いだろう。米国最貧州のひとつであるルイジアナ州の共和党支持者たち40人にリベラル派の著者がインタビューしたものをまとめた一冊は、第一次トランプ政権の際、「トランプ勝利を理解するための6冊」のうちの一冊に選ばれている。
その本から、8年。今回著者が訪ねたのは、下院選挙区の中で二番目に貧しく、白人の割合が高いという東部アパラチア地方、ケンタッキー州のパイクヴィル。炭鉱の閉鎖などにより衰退したいわゆる「ラストベルト」で、著者は熱烈なMAGA支持層、非大卒の白人をはじめとしてさまざまな住民に話を聞いていく。
本書では、『壁の向こうの住人たち』の「ディープストーリー」にも改めて触れられている。
アメリカンドリームをめざす人々の長い列に辛抱強く並ぶ男性。が、そこに「高学歴の女性と黒人」が「差別撤廃措置」によって割り込む。手招きをしているのは「民主党の大統領」。それでも辛抱強く待っているのに、男性は「この無学な性差別者! レイシスト。同性愛恐怖症、レッドネック!」と非難される。
このディープストーリーをアパラチアのトランプ支持者にあてはめると、「新しい一章」を付け足す必要があると著者は指摘される。
それは以下のような内容だ。
「割り込み屋の中にガキ大将みたいな男がいる。その男は周囲の者を小突きまわし、自分の友だちを列に引き入れる。文句を言うやつがいればぶん殴る。悪いガキ大将だ。
ところが列に並んでいる人たちはもうひとり、別の男を目にする。うぬぼれ屋で攻撃的で――そいつもガキ大将タイプだ。明らかに欠点はあるのだが、みんなは大目に見ている。なぜなら彼はよいガキ大将だからだ。力が強いので、悪いガキ大将をやっつけてくれる。彼はあなたを守ってくれる。あなたのガキ大将だ。だからほかの人がこの男を批判したら、あなたは彼を守る。その男が完璧だからではなく、自分のガキ大将だからだ」
著者のホックシールド氏はこの本についてのインタビュー(朝日新聞2026年5月2日)で、「私が(著書で)試みているのは、皆さんが『バイリンガル』になる手助けをすることです」と語っている。
この言葉に、私はハッとさせられた。
この国でも長いこと「分断」が指摘され、特に「日本人ファースト」以降のこの1年、それはさらに深まっている。そんな現実に対して「対話をすべき」という人もいれば「レイシストと対話などもってのほか」という声もある。が、まずは「バイリンガル」になること。これこそが、分断を乗り越える有効な一手ではないだろうか。
インタビューでホックシールド氏は、以下のようにも語っている。
「第三に、トランプ氏は4段階の『恥の撃退儀式(Anti-shame ritual)』を提供する。これが最も重要です。①彼が『移民がペットを食べている』といった異常な発言をする。②メディアや知識人が激しく非難し、彼に恥をかかせる。③彼が『見下されている私を見ろ。あいつらは私を通してあなたたちを攻撃している。私が代わりに恥を引き受ける』『私が背負った恥に比べれば、皆さんはまだマシなはずだ』と主張し、まるでイエス・キリストのように身代わりの被害者となる。④しかしキリストとは異なり、彼は剣を構えて『あなたたちのために報復する』と語る――というように」
「米国の半分、民主党支持層は、①と②を聞いている。しかし、共和党側やグローバル化の敗者は③と④を見ている。つまり、米国人は感情の面で同じ大統領すら見ていないのです」
同じものを見ていてもまったく別のものを見ている感覚。それはこの国にも通じるだろう。それを最初に強く感じたのは、19年に公開された映画『主戦場』を観た時だ。
この国で、いわゆる「左右」でここまで言葉が通じなくなっているのか――。そう愕然としてからすでに7年。分断の溝はさらに深くなっている。そんな中、どうすればいいのか。
伊藤氏は著書で、「明白な弱者」と「曖昧な弱者」、それぞれを支援するプロジェクトを進めていくべきではと書いている。
非常に共感するが、そこで壁となるのもまた曖昧な弱者かもしれないという予感がどうしても拭えない。なぜなら「ひろゆき論」と題された1章には、以下のような記述があるからだ。
「かつて2ちゃんねるがスタートした当初、その利用者の資質についてひろゆきは、『嘘は嘘であると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい』と語っていた。そこには『情報強者』の条件が端的に示されていたと言えるだろうが、しかしこの条件を完全に満たすことのできる者など、実際には存在しないだろう。
ところが彼の支持者はそうした存在になろうと努め、何事にも騙されないよう、何でもかんでも疑ってかかるようになる。その結果、ニヒリスティックな価値相対主義の考えに基づき、何事も信じないという態度を共有する集団ができあがってしまった」
ここを読んで、思わず「ああ」とため息が漏れた。
恐ろしいのは、この手の「ニヒリスティックな価値相対主義」者は、すでにこの国の多数派だろうことだ。
生活が苦しくとも決して自らを「社会の犠牲者」などとは捉えず、よって自力でサバイブするしかないと強烈な自己責任論を内面化させているわけだが、そういうスタンスって2ちゃんねる(現在の5ちゃんねる)の影響だったのか――と目から鱗な思いがした。
そんな中で、何をどうしてどうやって変えていけばいいのだろう――。
途方に暮れているが、とにかくこの2冊はハチャメチャに面白いので、ぜひ、読んでほしい。

1 週間前
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