麻酔で意識がない間も脳は音に反応していた
麻酔で意識がない間も脳は音に反応していた / Credit:Canva・なぜそんな実験ができたのか
研究を率いたのは、ベイラー医科大学の神経外科教授サミール・シェス博士のチームです。
舞台となったのは、脳の奥深くにある「海馬」と呼ばれる小さな器官でした。
タツノオトシゴのような形をしていて、左右にひとつずつあります。
役割を一言で言えば、脳内の「記録係」のような存在です。
今日あった出来事を整理し、長期の記憶として保存する仕事を担っています。
最近の研究では、それだけでなく、言葉の文脈を読み取る働きにも関わっていることが分かってきました。
ただし海馬は、耳から入った音の信号が届くまでにかなり遠回りする、いわば脳の「奥座敷」のような場所にあります。
だからこそ研究者たちは「麻酔で意識が落ちれば、海馬への信号はかなり弱まるはずだ」と考えていました。
ところが、その想定は外れたのです。
被験者の脳に電極を差し込んだ / Credit: Katlowitz et al., Nature (2026) / CC BY 4.0いったい、海馬では何が起きていたのか。
それを確かめるためには、頭蓋骨を切り開き脳に直接電極を刺すような特殊な状況での実験が必要でした。
もちろん、こうした実験は誰にでもお願いできるものではありません。
協力を仰いだのは、薬では発作を抑えきれない重いタイプの「てんかん」を抱える7人の患者さんでした。
このタイプのてんかんでは、最後の選択肢として「発作の発生源になっている脳の一部を、外科的に取り除く」手術が行われることがあります。
研究チームは患者さんの同意のもと、「どのみち取り除く予定の組織です。手術の直前の数十分だけ、研究のために脳の活動を記録させてください」と申し出ました。
健康な人にはとても頼めない実験が、この特殊な事情だからこそ実現したわけです。
記録に使われたのは、「ニューロピクセル」というごく細い針のような装置でした。
髪の毛より細い針の表面に、384個もの電極(電気信号を拾うセンサー)がびっしりと並んでいます。
どれくらい高性能かというと──従来の脳波計が「満員の劇場の外から、ざわめきだけを聞いている状態」だとすれば、ニューロピクセルは「劇場の中に入って、観客ひとりひとりの声を録音できる」くらいの違いがあります。
脳の細胞(ニューロン)がひとつずつ発する微かな電気信号を、別々に聞き分けられるのです。
この装置をヒトの海馬に挿入したのは、これまでに例のない試みでした。
患者さんたちはその後、麻酔がかけられますが、研究者たちにとってはここからが本番でした。
・単純な音にも「学習」していた海馬
研究は2つの実験に分かれています。
まずは比較的シンプルな方から。
研究者は、麻酔でしっかり眠っている3人の患者さんに、低い音と高い音の2種類を聞かせました。
普通に流れる音のあいだに、ときどき「仲間外れの音」をこっそり混ぜる、というシンプルな仕掛けです。
すると、麻酔下の患者さんの海馬のニューロンたちは、その「仲間外れの音」にちゃんと反応していました。
そして、もっと驚いたことがあります。
その反応が、10分かけて少しずつ鮮明になっていったのです。
最初は曖昧だった「ちがう音への反応」が、刺激を続けているあいだに、だんだんと明確になっていきました。
これは脳科学で「可塑性」と呼ばれる現象──つまり脳が経験に応じて自らを書き換えていく、しなやかな性質を示しています。
10分かけて何かを学ぶ。
それは普通、目を覚まして集中している人がなにかを練習するときに見られる時間スケールであって、麻酔下の脳で観察されるとは、誰も思っていませんでした。
意識のない脳が、その短いあいだに、ある種の「学習に近い変化」をしていた。
「意識がなければ脳は単純な反射しか起こさないはずだ」──そんな従来の見方を、今回の結果は揺さぶったのです。
しかし驚きはそれに留まりませんでした。






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