こんな日は、みんなこぞってカート回収の担当を希望する。何週間も続いた霧が晴れて太陽が顔をのぞかせ、気温は26度近くまで上がろうとしていた。「トレーダー・ジョーズ(Trader Joe’s:ユニークな自社商品で知られるアメリカの人気スーパー)」の冷えた店内の空気から逃れられる絶好のチャンスだ。
働き始めて最初の1カ月で、私はカート回収においてプロの域に達していた。長さ3〜4メートルのストラップの端にある金属製のフックを絶妙な力加減で放り投げ、6台先のショッピングカートのハンドルに引っ掛ける。連結されたカートの列を引っ張り、そこから、昼時に狭い駐車場でスペースを探しているドライバーたちの邪魔にならないよう、上手くカートを回収所へと回転させる。
「私って天才」と思った。
その時、母の声が聞こえた。1970年代、ステーションワゴンの後部座席にあるチャイルドシートに座っていた子どもの私に向けられた、あの声。そして今、水曜日の午後、強い日差しが照りつける小さなモールの駐車場で買い物カートを回収している、スーパーの中年新人スタッフである私に向けられた声だ。
「大学に行って勉強しないと、こうなるよ」
母が初めてその皮肉を口にしたとき、私はまだよちよち歩きの幼児にすぎなかった。でも、それからの数十年間、冗談半分っぽくも何度もその言葉を聞かされ、それは私の自己認識の奥深くに刻まれていた。
私は駐車場でカートを引くような人間ではないはずだった。しかしそれ以上に、その姿を「人に見られる」べきではないはずだった。ましてや、その仕事に達成感を覚えるなど、絶対にあってはならないことだった。
「何者かになれ」
我が家は、ひねりの効いたユーモアが得意な家庭だった。でもその笑いの裏には、とてもリアルな何かが隠されていた。それを「階級への不安」とでも呼ぶべきだろうか。
私の両親は2人とも、大学に進学して「何者かになる」ことが絶対的かつ当然の前提として育てられた。2人は大学で出会い、ともにジャーナリズムの道へ進んだ。
もっとも、母は当時の時代の風潮により、輝かしいキャリアを捨てて母親そして主婦になることを余儀なくされた。母はそのことに生涯、苛立ちを抱えていた。
しかし、両親は自分たちが育てられたのと同じように、私やきょうだいたちを育てた。大学に行くかどうかなどという議論すら存在しなかった。私たちは教育を受け、誰もが認める明確な形で実績を上げなければならなかった。
両親が亡くなり、ジャーナリズムと活動家としての自分の型破りなキャリアが突然終わりを迎えたとき、私は50歳の誕生日を目の前にして、完全に人生の拠り所を失っていた。でもこの瞬間は、人生の第2章を始めるチャンスのようにも感じられた。
ずっと教鞭を執りたいと思っていたため、今こそ修士号を取得するタイミングかもしれないと考えた。私は大学院で勉強を始め、画面を1日中見つめる必要がなく、生活費の足しになるような昼間の仕事を探し始めた。
そこで頭に浮かんだのがトレーダー・ジョーズだった。それは新たな人生のチャプターを始めるような気分だった。
大人のギャップイヤー
正直、他の選択肢は全く考えていなかった。トレーダー・ジョーズで働くことは、私と同世代の中年・ミドルキャリアの仲間たちの間で一種の「憧れ」になっていた。カジュアルで、従業員は楽しそうに働いており(もしかしたら大麻でも吸っているのかも)、会社には熱狂的なファンがいる。それに、オフィスの政治やプライドのぶつかり合い、PC仕事や愚痴から離れ、毎日仕事を職場に置いて帰れる生活を望んでいた。
どうせ、短期集中型の修士課程を卒業し、いわゆる「立派な職業」に戻るまでの、一時的な腰掛けにすぎないと考えていたのだ。
友人たちは少し驚いた表情を見せたが、この計画に対する間接的な興奮を隠しきれない様子でもあった。夢に見ることはあっても、実際にそれを行うのは、無謀、あるいは常軌を逸していると思ったのだろう。
でも、私が「もちろん、一時的なものだから」と言っていたため、皆それを「大人のギャップイヤー(仕事や学業を一時的に中断し、普段得られないような社会経験や人生経験を積む期間)」的な冒険として扱った。
それからもう、7年が経った。

Photo by Mark Mosher
実は「人」が好きだった
自分がトレーダー・ジョーズで働いていると人に話す時、私は必ず「最高だよ」と付け加える。
スタッフとしての数年間が、多くの意味で私の人生を変えたことは事実であり、その肉体労働を心から楽しんでいる。自分でも驚いたことに、私は実は「人」が好きで、見知らぬ客が「いつも予想外の場所にある」と共感してくれるクレームフレーシュ(発酵クリーム)を探すのを手伝う機会に、喜んで飛びつくようになった。
他人に少しの幸せを届ける毎日のチャンスは、想像以上に大きなボーナスだった。ある顧客とは息ができなくなるほど爆笑し、別の顧客とは涙が止まらなくなり、裏口に出てタバコを吸って気持ちを落ち着かせなければならないこともあった。
でも、いつも大好きだというわけではない。まず第一に、私の身体は「更年期を迎えあちこちの関節がすり減った女性」であり、「朝の5時に20キロを超えるニンジンの箱を持ち上げるべきではない」と警告してくる。
そしてもちろん、頭の中のあの母親の声が、「ここはあなたが行き着くへき場所ではない」と、定期的に思い出させてくる。
「立派な仕事」とは
私は子どもの頃、ビール工場で働く女性2人を描いたテレビ番組『ラバーン&シャーリー』を観させてもらえなかった。母に理由を尋ねると、「粗野だから。工場で働くことが華やかで望ましいことだなんていう勘違いをしてほしくない」と、冗談と本音半々であろう答えを返した。
40年が経ち、私は未だにその番組を1話丸ごと観たことはない。でもこれまで観た内容から言うと、それは少しの困窮の中でも、友情、勤勉、尊厳、そして喜びの力を称える物語だ。それは決して、9歳の子どもに悪影響を与えるようなメッセージではない。
しかし、両親が抱き、私たちに植え付けた信念...つまり、価値があり、称賛されるためには、大学の学位を持ち、「まっとうな」(つまりホワイトカラーの)キャリアを歩まなければならない、という考え方には暗い側面がある。
現代において重要なのは、親切であること、共感を持つこと、そして具体的な方法で社会に貢献することだ。学位がそれを保証してくれるわけではない。その上、今日では大学の学費は多くのアメリカ人にとって経済的に手が届かないものになっており、学位があったとしても専攻分野での就職が約束されるわけでもない。
最近の調査によると、回答者の3分の2が「4年制大学の学位にはそれだけの価値がない」と答えており、近年の大学卒業生の42%が「能力を十分に活かせていない職に就いている」と分類されている。それにもかかわらず、非「専門職」の仕事に対する微妙な(時には露骨な)偏見は根強く残っており、それは私にとっても人ごとではない。
筋肉が悲鳴を上げる
研修の最初の1週間、私は自分が信じられないほど周囲から浮いているように感じた。自分はここに馴染めるだろうか?この仕事に向いているのだろうか?そして何より、自分が心から「誇りを持てる、愛すべき仕事」について、あの幼少期に植え付けられた誤った教えを手放すことができるだろうか?
最初の「まぁ、なんとかなるだろう」というのん気な考えは、すぐに「無理かも」という不安に変わった。毎晩、トリュフとキムチの匂いを漂わせながら帰宅し、私が「緊急ヨガ」と呼ぶストレッチを行った。重い箱を運んだせいで筋肉は悲鳴を上げ、体中がアザだらけだった。
また、トレーダー・ジョーズは「カルト」なのではないかとも真剣に疑った。同僚たちはいつも笑顔で、少なくとも表面上は、私がこれまで試みたこともないほどフレンドリーだった(ジャーナリストや活動家という人種は、最も愛想の良い部類ではないことが多い)。それに、私は「隣人を愛せ、ただし騒ぎ立てるな。尊厳を保て」という聖公会(エピスコパル教会)の教えで育ったのだ。
最終的に、私は同僚たちの多くが、他者を安心させるという「感情的な仕事」に長けた、純粋に素晴らしい人々であることに気づいた。これには混乱した。じゃあなぜ「この私」がここにいるのだろう?しかも、この仕事に対して少なからず「得意」だと感じているのだろう?
でも、私は挑戦を愛する神経質な人間だ。もしかしたら、この奇妙な新しい世界を征服できるかもしれない。
ついに教鞭の道へ
私は業界用語を覚え、傷みやすい商品を素早く入れ替える方法を学び、気難しい客の機嫌をなだめる方法を身につけた。外見的、意図的、そして本物のフレンドリーさを実践することは、実に疲れる作業だった。
昼休みには、喫煙者やハトがたむろする搬入エリアで大学院の宿題をこなした。パプリカを並べ替えながら、頭の中で何度も「調査方法論」の授業のデータ回帰分析を行なっていた。私は「ゾーン」に入り始めていた。
これはミッドライフ・クライシス(中年の危機)なんかじゃない、と自分に言い聞かせた。
大学院を卒業して半年後、私は地元の大学で「デジタルメディア・リテラシー」のスキルを教える非常勤の仕事を得た。ついに自分の居場所に到達したと感じた。しかし、教えるという仕事が本当に生涯の夢だったのかを見極める間、トレーダー・ジョーズの仕事も続けた。
教育の仕事は過酷だったが、ワクワクした。私は恥ずかしげもなく、従業員割引で買ったチョコレートを学生たちに配った。「これこそが私の天職だ」と思った。プラス、これなら私の両親も友人に自慢できたはずだ。
人生は順調に転換し、私は人生の荒波を完全に乗りこなしていた。ミッドライフ・クライシスなんてどこ吹く風だ!
そして、新型コロナウイルスが到来し、私の授業はすべてキャンセルされた。
パンデミックがもたらしたもの
パンデミック初期のトレーダー・ジョーズのスタッフとしての生活は……凄まじいものだった。最初は缶詰などの必需品への買い出しラッシュから始まった。その後、サプライチェーンが悲鳴を上げると、トイレットペーパーと手指消毒液の奪い合いになった。
2020年の春、ある風刺漫画家が、トレーダー・ジョーズのスタッフが、DCコミックスのスーパーヒーローたちの仲間入りを果たす姿を描いた。私たちはそれを従業員用トイレのドアに貼った。しばらくの間、私たちは皆でこの危機を乗り越えているという連帯感があり、仕事はそれまで以上に報われるものに思えた。
しかし、それは長続きしなかった。マスク着用を義務付けられた頃を境に、その空気は一変した。
その頃には、私は仕事のためだけに家を出て、また家に帰るだけの生活を送っていた。そんな生活が半年ほど続き、冬を迎え死者数が増加の一途をたどる中、私はますます無力感を覚えるようになった。顧客たちもロックダウン下での限界を迎えており、ストレスによるイラつきを私たちにぶつけてくるようになった。

Photo by Michele Wilson
「愚痴を聞いてくれてありがとう」
「すみません、ここで働いている方ですか?」
私が脚立の上でバランスを取りながら、一番上の棚にカシューナッツの袋を積み上げていると、声をかけられた。手を止める。私が身に着けているもののほぼすべてにトレーダー・ジョーズのロゴが入っており、ベルトのホルスターには鮮やかなオレンジ色のボックスカッターが突き刺さっている。女性が何を疑っているのか、その理由を探そうとした。皮肉の一つでも言ってやりたい衝動に駆られたが、言葉を飲み込んだ。
「はい、何かお手伝いできることはありますか?」と、慎重に脚立を降りながら答えた。
この女性は、常連客の間でも有名な「不機嫌な客」の1人だった。意地悪というわけではないが(そういう客もたくさんいたが)、トゲがあるのだ。
女性が話し始めた瞬間、私はこの瞬間における自分の役割は、「会社の顔」になることだと理解した。女性は、青果のプラスチック包装に怒っていた。オーガニックのブロッコリーが、まだ正午だというのに売り切れていることに怒っていた。巨大アグリビジネス(大規模農業)に怒っていた。彼女自身にも私にもコントロールできない事柄に対して怒っていた。
彼女は産業化された食料システムの現状に不満を抱いており、そのシステムの最末端の代理人としての私の仕事は、頷き、共感を示す表情を作り、彼女の怒りを吸収することだった。そして実際、私も同じ不満を感じていた。
私は説明した。自分は巨大な組織の最下層の歯車にすぎないため、その場で問題を解決することはできないが、本社オフィスに意見を送ってほしいこと。そして、会社が今年、約90万キロのプラスチック包装の削減に積極的に取り組んでいることを伝えた。彼女は「太平洋ゴミベルト」について言及した。私たちはしばらくの間、バナナを見つめながら沈黙した。
「今日、ニュースでスウェーデン出身かな?の素晴らしい若い女性を見たのだけど……」と女性が切り出した。
「グレタ・トゥーンベリですね!」私は叫びそうになった。
私たちは、一躍有名になりつつあったその若き気候変動活動家への称賛の言葉を交わした。女性は深く息を吐き、私に微笑みかけた。
「愚痴を聞いてくれてありがとう。ごめんなさいね」
「大丈夫ですよ、分かります。それが私の仕事ですから。他に何かできることがあれば、いつでも声をかけてください」と私は答えた。
女性は冷凍食品コーナーへと向かい、私は再び脚立を上った。この瞬間が、私たちどちらかの無力感だけでも和らげることができたのかもしれない。
職場での多様な出会い
2年半におよぶコロナ禍の不安が去り、生活は日常を取り戻し始めた。私はすぐに教職に戻ることは選ばなかった。デジタルメディアの状況はさらなる誤情報で混乱を極めており、その仕事を続けることは不毛な試みのように思えたからだ。
トレーダー・ジョーズの仕事と私の生活には、いつもの喜びとありふれた苛立ちが戻ってきた。
空いたレジから私が笑顔で手を振ると、「空いてる?ひとりで寂しそうだよ!」と客が声をかけてくる。
私は練習を重ねた陽気さで返す。「どこ行ってたんですか?1日中あなたを待っていたんですよ!」そんなやり取りを交わしながら、毎日がいつものリズムに落ち着き、多かれ少なかれ同じような日々が過ぎていく。
中には、こちらのペースを狂わせ、ひどい時には心をへし折ってくるような厄介な常連客もまだいた。ある小柄な女性は、スタッフに向かって「使えない」「バカ」だと定期的に暴言を吐いていたが、店長から「これ以上続けるなら出入り禁止にする」と言い渡されてからは変わった(数年経った今では、なぜかさらに小柄になり、フレンドリーで優しくなった)。
寂しげな常連客もいた。他の客の子どもたちのためにバルーンアートを作るのが大好きな、妻と死別した老人。そして、金曜日の朝になるといつも冷凍食品コーナーで私を捕まえ、哲学について語り合っていた、がん闘病中の若い男性。やがて、彼の姿は見なくなった。
近くのシニア向け住宅に住む101歳の女性は、いつも車まで食料品を運ぶ手伝いを頼んできた。「歩数を稼ぐため」に駐車場の最も遠い場所に駐車し、歩きながら自身の魅力的な人生について熱く語った。また、その響き渡る声で姿を見る前に来店が分かる、大柄な元看護師の女性は毎週2回来店した。私のことを「お嬢ちゃん(Toots)」と呼び、私は毎回それが嬉しかった。
職場でこれほど多様な人々と友人になれたことは、実に心躍る経験だった。同僚の多くはフィリピン系、あるいはラテンアメリカや中東の出身だ。複数の言語を話せない従業員は、私くらいだった。
年齢はティーンエイジャーからシニア層まで幅広く、それぞれの人生にストーリーがあり、学べることがあった。ある若い同僚は、開店前の品出しの時間に自分のスマホを店舗のスピーカーに繋ぎ、それがきっかけで私は北アフリカのヒップホップが好きになった。
店内の手書きポップを担当するアート部門には、実力派のイラストレーターたちが揃っている。X世代の同僚の一人は私のことを「おばあちゃん」と呼び、私は彼を「おじいちゃん」と親しく呼んでいる(彼は、隣にある衣料品店で火曜日にシニア割引が使えることを教えてくれた)。
私はスーパーで働いている。得意だし、好きだし、もう恥じていない
最近、トレーダー・ジョーズを辞めてもっと「まっとうな」仕事に移るべきかどうか悩んでいた時、母方の祖父のことが頭に浮かんだ。彼はスタンフォード大学を中退してアラスカ・ハイウェイの建設を手伝い、その後数年間、南西部でカウボーイ(牛追い)をしていた。その後、故郷に戻り、大卒の「きちんとした」祖母と結婚した。祖父は落ち着き、食品スーパーチェーンの卸売業者として「まともな仕事」に就いた。
そこで気づいた。私は、家業を継いでいたのだ。
そして、何よりも、この仕事は私を、以前よりも幸せで、フレンドリーで、忍耐強く、寛容で、そしてはるかに謙虚な人間にしてくれた。
今でも駐車場でカートを回収すると、頭の中で必ず再現される母の声に思わず笑ってしまう。その声が聞こえると、私は空を見上げて雨をめいっぱい浴びる。なぜなら、この不条理の中には喜びがあり、私はそれを全力で抱きしめるつもりだからだ。
私は自分の、このありふれた小売業の仕事、一緒に働く仲間たち、店に来てくれる顧客たちを愛している。そして、何年もかけて仕事を覚えた今、私はこの仕事が得意だ。
事実として、私は大学に「何度か」通った。それでも結局、スーパーの駐車場でカートを集めることになった。私は今、その事実に、心から、ついに、そしてほとんど、恥ずかしさを感じていない。
▽▽▽
Brooke Shelby Biggs(ブルック・シェルビー・ビッグス)はサンフランシスコ在住のライターであり、北カリフォルニアのトレーダー・ジョーズのクルーメンバー。『マザー・ジョーンズ』『WIRED』『ザ・ネーション』『サンフランシスコ・クロニクル』などのメディアに寄稿している。

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